まんがの構造、読了

昨日に引き続いて、大塚英志さんの『まんがの構造 増補新版(ISBN:4896673212)』をお終いまで読む。まんがの作用、構造、商品価値と批評の必要性についてさっくり熱弁した一冊でした。


まんがが現実のシミュラークルとして働くことで、現実との直截な関係を人間から切り離し*1、やがて人間の行動様式が、まんが的感覚の延長によって行われる様になっていったとする大塚さんの分析には、はっとさせられます。今のところ否定材料はありませんし、軽快に記号を追って楽しむまんがの気分は、時代にも良くあったことでしょう。その方法論が一般化するのに、障害は少なかったでしょう。


この流れは、写真が芸術からアウラ(一品物ゆえに備わる魅力)を掻き出したとして、複製される芸術と消費社会との相関を指摘したベンヤミンのことを連想させます。手の技はいつも儀式的で、魔術的ですらあるのだけれども、絵画をコピーしてしまえば、その魔術的な魅力は失せて、ただの記号・価値に置き換わる。*2うろ覚えだけど、確かこんなような趣旨だったはず。こうしてあらゆる物は、代替可能な品物になってきたらしい。


一方で事実を物語りの手法で再構成したまんがには、現実を乾燥しきったコピーにした上で、エンターテイメントに擦り変える力がある。そうした+αが、まんがの魅力・価値を生んでいる。…これはまんがだけではなく、例えばディズニーランドなんかもそうじゃないかな。
人間は自分の感覚を、楽しいことを反復して訓練している、というのが私の実感ですが*3、この流れで見ると、現在の多くの人は、まんがやディズニーランドで訓練された感覚を生かして現実を生き延びていると言えそうです。それはとても危うくて痛快なことじゃないでしょうか。
現実を劇的にするまんがの感覚は、たのしい一時と足もとの見えない状態、そして多分、(良くも悪くも)大きな可能性を提供します。一章で「現実との往復能力の有無」を物作りに不可欠な視点だとして重要視しているのには、私も同感です。もっと賢明に往復できたら、より楽しめるんじゃないだろうか。


一方で、大塚さんがもう長いことコラムや企画を通じて、まんがと相対していた人だという事も知れて、『キャラクター小説の作り方』での斜めで野心的な文章の理由が、すこし飲み込めた心持ちです。
もう少しこの人の活動を追ってみようかな。

…それにしても、出身大学の教授の名前を見て吹いてしまった。映画とか漫画とか、今のえらい人は私が小さい頃からばしばし活動していたんだなぁ。



恒例”amazonギフト券欲しい!

*1:ジブリのアニメは、よく出来ているが故に、観客に作品のメッセージよりも、作品の世界と向き合わせてしまって、現実への強い往復能力を獲得するまで現実を見失わせてしまっている。など。

*2:『「複製時代の芸術作品」精読(ISBN:4006000197)』

*3:趣味が高じるのはその一つだし、偉人伝や戦争アニメなんかは、それを教育的に利用しようとした一例だったはず